初めて物語/肥田緒里恵プロ編

2015年12月

 

世界選手権優勝3回、

全日本選手権優勝14回。

 

女子スリークッションの世界で

比類なき戦績を誇る肥田緒里恵。

 

両親はビリヤードのプロ。

ビリヤードはいつでもそばにあった。

だから、40年の半生で歴38年。

 

しかし、記憶にある初期のビリヤードは

「全然楽しくなかった」。

 

もしかしたらポケットビリヤードの

プロになっていたかもしれない肥田。

……の初めて物語。

 

取材・写真・文/B.D.

幼少期写真提供/肥田緒里恵

 

家族でお店(キャノン)にて。1985年。左端が肥田緒里恵(10歳)
家族でお店(キャノン)にて。1985年。左端が肥田緒里恵(10歳)

 

――初めてのビリヤードはいつでしたか?

 

「全然記憶に無いです(笑)。親がビリヤード場(東京『キャノン』)をやっているので、たぶん2~3歳の頃から突っついて遊ぶ程度はやっていたと思います」

 

――では、記憶にある初めてのビリヤードは?

 

「小学3年生くらいですかね。その頃はよく四ツ球をしていました。人から聞いた話だと、石みたいに固まっちゃって全然撞かなかったらしいです(笑)。その頃、四ツ球の試合にも出ていたと思います(※写真下)」

 

――「楽しい」と感じてました?

 

「それが全然楽しくなくて(笑)。楽しいと思っていたら、もっと違っていたかもしれない。でも、試合になると負けるのがイヤでしたね」

 

――スリークッションは?

 

「スリーも初めの頃からやってたんですが、四ツ球以上に取り方がわからない。だから、難しい顔をして、化石みたいに固まりきって大変でした。雄介くん(JPBFプロ森雄介。1993年生まれ)を見てると、10代前半からすくすく楽しそうに撞いているなぁと。私にはあの感覚、なかったですね。昔の私はイライラしてたと思います(笑)」

 

――ご両親がプロプレイヤー。コーチみたいな感じだったんですか?

 

「どうなんですかね。父と母で役割が違って。父はビリヤードをやらせたい方で、母はもうちょっと全体的に見てくれていたかな。だから、両親が揃うと、コーチでもあり親でもありという感じだったと思います」

 

――ご両親に反発したりということは?

 

「親は違うことを言うかもしれないですけど、子供の時は全然です。反抗期があったとは思えなくて。20歳を超えて、自分で考えて行動するということが増えてから少しあった程度じゃないでしょうか」

 

――学生時代、ビリヤード以外のことをやりたいと思ったことは?

 

「私の姉はビリヤードをやらない人なんですが、色んなアルバイトをしたり友達と遊んだりとか、そういう普通のことをしているのを見て、結構考えることはありましたね。でも、私は不器用なので、ビリヤードしか出来ないのかなぁっていう気持ちもあったんですよ」

 

――毎日、学校から帰って来てから練習ですか?

 

「高校くらいまではそんなにまともに練習した記憶はないですね。お店のお客さんで可愛がってくれる人や優しい人が来ると、一緒に撞いたりとか。でも、常連会とかに出ると負けず嫌いだから燃えちゃって(笑)」

 

――学生の頃の「将来の夢」は?

 

「あまり考えてなかったですね。ダメですね、なんかこう建設的に考えられなくて(笑)。ビリヤードをやるということも、『絶対』ではなかったです。でも、16、17歳のふとした時に、『ビリヤードをやろう』と決めて、そこで『もう戻れないな』と思ったことは覚えています」

 

1986年全関東女子四ツ球優勝大会(ハンデ戦)。11歳で優勝
1986年全関東女子四ツ球優勝大会(ハンデ戦)。11歳で優勝
サンシャインでエキシビションをした時のもの。右は姉
サンシャインでエキシビションをした時のもの。右は姉

 

――プロ入会は20歳前後でしたよね。

 

「たぶん19歳です。その時はもうビリヤードが好きで、一生懸命やろうと思ってたので自然な選択でした。同期のプロ、結構多いですよ。小林英明プロ、田名部徳之プロ、鈴木剛プロ、小原満プロ……など、10数人ぐらいでプロになって、8人ぐらいまだ残ってます」

 

――聞いた話では、10代の頃、ポケットビリヤードも結構しっかりやっていたそうですね。

 

「16~7歳の時はよく撞いてました。ナインボールの公式戦で準優勝したこともあります。今はポケットは撞いてないですけど、自分のスリークッションに、ポケット的な感じが残っていると思います」

 

――厚みで表から回す球とか?

 

「そうです。そういう球が得意だったんですけど、今はちょっとブレれちゃいますね。

 

 私が16歳~17歳の頃って、ビリヤードブームの余波が少しあったと思うんですね。その時、『キャノン』でポケットテーブル2、3台だけの小さなお店をやっていて、私はそこで店番をしてたんです。お店を開けて、ずっとポケットを練習して、夜になるとスリーをちょっと撞くという生活が続いてました。私、永遠とセンターショットを撞くとか、そういうタイプです。いくらでも出来ちゃう(笑)」

 

――そうはいっても、アマ時代を振り返るとキャロムを撞いていた時間の方が長いですよね?

 

「もしかしたら半々くらいだったんじゃないですか。少なくとも4割くらいはポケットを撞いてたと思います」

 

――ひょっとしたらJPBA(ポケットのプロ組織)に入っていたかも?

 

「ないではないですね。うちの父親はポケットもやってほしかったようですから。あの頃はスリークッションの女子の試合がなかったので、『活躍の場が少ない』と。その点、ポケットはちゃんと女子の試合がある。だから、両方できるなら両方やった方が良いっていう考えでしたね」

 

――プロ入りしてから、島田暁夫プロの門を叩きましたね。ご両親以外で初めて教わったのが島田プロですか?

 

「そうなりますね。21から24、25くらいまでお世話になったでしょうか。この時教わったことが本当に大きかったです」

 

2015全日本女子3C選手権にて
2015全日本女子3C選手権にて

 

――試合会場以外で、今もご両親とビリヤードの話をすることは?

 

「うちはたまに揃って飲みに行くことがあるんで、その時に話したり……だいたい言い合いになります(笑)」

 

――ご両親から言われて、今も覚えている「教え」はありますか?

 

「これというものはないですが、母にはマナー的なことを言われましたね。今それが出来ているかと言われれば、そこまでの自信はありませんが……。例えば、外した時に『こんなはずじゃない』っていう顔と仕草が出てしまったことが度々あって。まあ、10代の頃は自然と出ちゃいますよね。20代になっても、今でもそういう時がありますが、それについてはよく言われました。『みっともないからやめなさい』と。私は鈍くて、残念ながら自分で気付くタイプじゃないので、ビシッと言ってくれて助かります。

 

 父にも良いことを何度も言ってもらっていますが、思い出せない(笑)。父は私のクセとか好不調時の特徴をよく把握しているので、フォームとかスタンスとか、『お前が本当に良い時はこうなんだよ』と遠慮がちに言います」

 

――遠慮がちに?

 

「あまり言うと私が『もう、うるさい』という感じになるので(笑)。でも、普段も試合でもよく見てくれているから、そこに気付くんですよね」

 

――始めの頃はビリヤードは楽しくなかったということですが、その後、「楽しいな」とか「向いてるな」と思えるようになった転機はありますか?

 

「転機というほどのことはないですが、強いて言えば、高校1年生の時に試合を観てて『これ、面白いかも』って思ったことがあって」

 

――その試合とは?

 

「『全日本スリークッション選手権』です。会場は『成増アクトホール』。それまでもスリークッションをやってたんですけど、そこまで上手くなりたいと思っていた訳でもなく。でも、試合を観てて『こんなふうに出来たらいいな』と思えるようになりました。あそこが転換点かなと」

 

――なぜ、そこで気持ちの変化があったのだと思いますか?

 

「高校1年くらいになると、自分のことが見えてくるじゃないですか。何が出来て何が出来なくてって。私は、勉強も運動もダメで、全然得意なものがなかった。ただ、ビリヤードだけは試合になると負けず嫌いが発揮されて、のめりこむことがあったので、『私にはこれかも』って少しだけ思うところがあったのかもしれないです。もうほとんど覚えてないんですけどね(笑)」

 

…………

 

肥田緒里恵プロはこんな人↓

 

東京都出身・在住

1975年10月4日生

1995年プロ入り(JPBF)

両親(肥田明と肥田一美)も共にプロ

2004年、2006年、2008年

『第1回~第3回世界女子スリークッション選手権』3連覇

『全日本選手権』14勝

他、国内外で優勝・上位入賞多数

2015年7月『ジェニファー・シム国際』3位

使用キューはADAM JAPAN

 

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