初めて物語/横田英樹プロ編

2016年2月

 

「この顔で、10代後半の時から

23歳ぐらいに見られてた」

 

という香川育ちの青年は、

デザイン学校進学のため、18歳で上京。

 

高田馬場ビッグボックスや

渋谷CUEという名門で

どっぷりビリヤードの世界に浸っていく。

 

もしかしたらホストに

なっていたかもしれない横田英樹。

 

……の初めて物語。

 

取材・写真・文/BD

写真提供/横田英樹

 

18歳。ビッグボックス(高田馬場)にて
18歳。ビッグボックス(高田馬場)にて

 

――初めてビリヤードをやったのはいつ、どこででしたか?

 

「高校生の時。今はない『善通寺ビリヤード』(香川県)でやりました」

 

――ご友人と?

 

「学校の友達が僕より先にビリヤードを始めてて、善通寺ビリヤードによくいたんです。ある時、そいつに会いにビリヤード場に行ったらいなかった。待ってる間にマスターが『やってみるか?』と」

 

――どうでした? 初体験は。

 

「一発で『これ、面白い!』と思った。ブリッジを組んで、手球を撞いて、近い的球を入れて……って、教わりながらやったんだけど、そこまではノーミスで。マスターにも『どうや、面白いやろ』なんて言われてね。マスターは平気でなんべんもマスワリする人だったから、観ていた僕も『ビリヤードって簡単なんだ』って思いましたね。3日目くらいにはもう5-9をやらされてましたけど(笑)」

 

――当時、他にもスポーツや趣味をやってましたか?

 

「中学まで柔道、高校で一瞬だけ体操部。体操でオリンピックに行きたいと思い、県で一番体操が強い高校を選びました。それまで体操なんてやったことなかったのに(笑)。で、体操部には県内のエリートばかり来てて、見た瞬間に『無理!』(笑)。辞めた後にビリヤードに出会ったんです」

 

――毎日撞いてたんですか?

 

「はい。ゲーム代を捻出するために新聞配達のバイトも始めて、一応学校には行き、放課後にビリヤード場へ。お店の人たちも5-9で微妙に勝たせてくれる訳ですよ。で、『どうや、面白いやろ』です(笑)。友達より完全に僕の方がハマっちゃった」

 

――お手本にした人はお店のマスター?

 

「そのぐらいしか上手い人を観たことがなかった。あとは高松まで行って、高松で一番の人を見て『かっこいいなー』と思ってました」

 

――高校生活の間にどのぐらい上手くなったんですか?

 

「ずっとB級ですよ。Cはすぐ通過したけど、ずっとB。香川の田舎で撞いてるとそんなものです。その後、上京して渋谷『CUE』なんかに行った時、上手い人がいっぱいいすぎて驚きましたね。『なんじゃこれは。すごいなこの人ら』って」

 

――ずっと善通寺ビリヤードが拠点だったんですか?

 

「そう。途中からバイトみたいな感じになってました。店番する代わりにタダで撞かせてもらって。でも、だいたい5-9ばかりやらされてたね。それと、ビリヤード場の下に『小僧寿し』が出来たから、そこでもバイトしてました。下で寿司を握って、上で球撞きを手伝って(笑)。ゲーム代がかからなくなっちゃった」

 

――香川時代、プロになろうという考えは?

 

「全くなかったです。プロの存在も知らなかったし、誰が有名とかもわかってなかった。ある時、香川と兵庫のお店の対抗リーグ戦が善通寺ビリヤードで行われて。向こうのメンバーには名人の長谷川邦光さんがいたんだけど、ビリヤードを覚えて3ヶ月くらいの僕が、120点ゲームで勝ちそうになった。周りはザワザワしてるんです。『横田が長谷川に勝ちそうだぞ』って。それを聞いて『え、この人が長谷川さんなの!?』と気付いた僕は全くキューが出なくなって負けました(笑)」

 

――1970年代半ばの香川。ポケットビリヤードは流行ってましたか?

 

「まだ四ツ玉を撞いている人の方が多い時代だったかな。だから、四ツ玉撞かせたら上手いって人、多かったですよ」

 

――善通寺ビリヤードに置かれていたテーブルは、『箱台』(四ツ球台をポケット台に改造したもの)でしたか?

 

「そうだったんじゃないかと思うなぁ」

 

――横田さんはなぜそこまでビリヤードに熱中していたんでしょうか?

 

「もともと個人競技が好きだったし、球が入れば面白かった。それに、田舎だから他にやることなかったんですよ(笑)」

 

20歳。ガリオンオープン(大阪開催)。相手は古波蔵選手
20歳。ガリオンオープン(大阪開催)。相手は古波蔵選手

 

――さっき渋谷『CUE』の名前が出ましたが、いつから東京に?

 

「僕、18で上京して、デザインの専門学校に入ったんです」

 

――えっ! デザイナーっていう道もあったんですか?

 

「一瞬だけね(笑)」

 

――住んでたのは?

 

「上石神井(練馬区)。偶然にも家の真裏にビリヤード場があり、球から離れられない運命なのかと(笑)。そこはキャロムがメインのお店でポケットをやる人はあまりいなかったけど、遊びに行ってました。デザイン学校から帰って来ると、裏から『横田くーん! ご飯食べるー?』なんて呼ばれることもあったなぁ。ある日、そのお店で小笠原秀樹さんっていう関東トップクラスの人に出会って。香川にはいないレベルの人を初めて見ましたよ。その小笠原さんに『横田くん、君はここで撞いてちゃダメだ、中央に出てこい』って言われて」

 

――そして?

 

「初めて新宿へ。新宿のビリヤード場で小笠原さんと待ち合わせしてたんですけど、先に着いて待ってたら、ニコニコしたおじさんがこっちを見つつ適当に球を外しながら『やるか?』って言う。きっと僕と同じくらいだろうなと思って撞いてみたらボコボコにされて。後から来た小笠原さんに『お前誰と撞いてるんだ! この人は関東チャンピオンだぞ!』って。すっかりやられましたね(笑)。性懲りもなく次の日もそこに行って。今度はそのおじさんが3番7番ハンデをくれたんでやってみたら、またボコボコにされて(笑)」

 

――デザイン学校、行ってました?(笑)

 

「通学路の乗り換え駅が高田馬場でね。となると『ビックボックス』ですよ(※今はない)。午後から授業っていう日はやばかったですね。午前中から撞いてしまい、学校に行く時間がどんどん遅れて、挙句の果てには行かなくなっちゃう。結局学校は辞めちゃった。親には『ビリヤードばっかりやって! それで飯食っていくんか!』と言われてね。『行く!』って言ったら、ホントにその通りになっちゃったんだけど(笑)」

 

――ビッグボックスでは一人練習? 相撞き?

 

「両方です。香川時代は全然一人撞きはやってなかったけど、ビックボックスではやってたな。誰かが来たら一緒に撞くんですけど、来ない時は一人でずっと。誰かに途中で『昼飯行こうぜ』って誘われても、その時間がもったいないから撞いてましたね」

 

――渋谷CUEに行ったのもその頃ですか?

 

「割とすぐです。飛び込みで『働かせてくれ』って言って、奇跡的に入れてもらえることになって」

 

――そこでぐんぐん伸びたんですか?

 

「『昨日より今日の方が上手くなってるな』って毎日実感してました。良い仲間というかライバルができたことも大きかった。ビックボックスで出会った白石英男(※後にJPBA13期生)と野呂博志(※後にアジア大会スヌーカー日本代表)です。僕ら3人は別々のビリヤード場で働いてたんです。僕はCUE、白石は『後楽園ビリヤード』、野呂は新宿の『ひかりビリヤード』(※後者2つとも今はない)。3人で1ヶ月に1回くらい集まって球を撞くのが楽しみだった。互いに相手の方が上手いと思ってて緊張感もありました。『やばい、白石、腕を上げたな』というような」

 

――年齢も同じくらいですよね。

 

「白石が2歳上で、野呂と僕は身長差はあるけど同い年(笑)。そうこうしてるうちにどんどん上手くなって、当時僕は2~3ヶ月に一度善通寺に帰ってたんですけど、勝てなかった人に勝てるようになってました。1年くらいしたら高松の1番上手い人にも勝てて。『これでもうこっちに帰って来なくて済むな』って思ったこと、覚えてる」

 

2015年全日本選手権
2015年全日本選手権

 

――1970年代後半の渋谷CUEってどんな感じだったんですか?

 

「いいお客さんがいっぱいいましたね。気持ち良く遊ばせてくれるようなね。『おー、横田遊ぼうぜ』って言われて、僕が100点くらい勝つと、『お前、あっち行け!』って追い払われて、奥村さん(健プロ。現JPBF)がいるテーブルに行かされる。それで1時間で帰って来て、『おい、早いな!』っていう(笑)」

 

――ああ、その頃既に奥村さんが来てたんですね。

 

「そう。バイトで入った前後から、『ここには奥村っていうすごい人が来る』ということは知ってて。ある日レジでうたた寝してたら、ヒゲを生やした小柄で痩せた人が入ってきて、『××さん、いる?』って。『まだですよ』って答えたら、奥からキューを出して花台で撞き始めちゃった。『ちょっと、そこ花台ですよ!』って言いそうになったんだけど、あまりにもポンポン入れるからピーン!と来た。まさにそれが奥村さん。やっぱりもう他の人とは違ってましたね」

 

――その出会いは何歳の時?

 

「僕が18の時。奥村さんは僕の5つ上です」

 

――18歳の1年間でかなり濃い経験を……。

 

「濃いですねぇ(笑)。もしかしたら僕、18でホストになってたかもしれないし……」

 

――えっ!

 

「新宿のビリヤード場を巡ってる時に、見るからに筋者っぽい人と球を撞いたことがあったんです。アフロヘアでね。『この人、そっちかな』って思いながら、何日か一緒に撞いてるうちに仲良くなって。ある時その人が、『お前、仕事は何やってるんだ?』と聞いてきた。『バイト探してます』って答えたら、『うちに来い』と。ええっ、何の仕事だろうと思ったら、ホストクラブだった」

 

――(笑)見込まれたんですね。

 

「ねぇ(笑)。『ホスト!? 僕、服とか持ってないですから』って言っても、『服なんてやるよ』って言う。こっちが『えー。そうですか……』なんて歯切れ悪いままでいたら、『それじゃ明日の5時に面接な!』って決められちゃった。そのお店っていうのは、今有名な『ニュー愛』の前身です。そうは言っても当時の僕としては『ホスト……ホストかぁ』ですよ。こうなったら、ということで、運試しをすることにしました」

 

――それは?

 

「明日、まず渋谷のCUEに飛び込みで行って雇ってもらえるならそれで良し。ダメならそのまま5時にホストの面接に行こうと。で、CUEに行っていきなりマネージャーさんに『バイトしたいんですけど』って言ったら、『何を見てきたの?』って驚いた顔をされた。『何も』と答えたら、『そうだよねぇ。昨日アルバイト情報誌に募集をかけたばかりだから、まだ載ってるはずがない……』って」

 

――えっ、偶然にも人を採るタイミングだったんですか(笑)。

 

「そう。『それじゃ明日からね』ですぐ決まりました」

 

――もしCUEが人を募集してなかったら……。

 

「面白いホストになってたと思うよ(笑)。でも、ホストしながらでもビリヤードはやってたんだろうと思います。そんな人、当時はいっぱいいたんだから。歌舞伎町でも高田馬場でも派手な格好の男はだいたいホストだった。そういう時代でしたよ」

 

(了)

 

Hideki Yokota

1957年3月18日

JPBA29期生

香川県善通寺市出身・東京都在住

『東日本男子プロツアー』優勝5回

『全日本14-1』優勝(※プロオープンの前身時代)

他、入賞多数

 

 

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