〈BD〉53年前の10月→「藤間選手四位入賞」。【シリーズ・日本ビリヤード新聞 vol.2】

 

ビリヤード珍品コレクター」の

I氏(あいし)が所蔵している、

 

約半世紀前に刊行されていた

月刊紙『日本ビリヤード新聞』から、

当時のビリヤード事情を読み解く

企画の第2回。

 

今回採り上げるのは

昭和43年(1968年)の

11月号(第43号)。

 

1968年10月に

藤間選手(藤間一男氏)が、

プール(ポケットビリヤード)の

『ワールドトーナメント』(アメリカ)の

14-1の部で、4位入賞を飾った

ことを報じています。

 

藤間氏は現在、自身のFacebook

この時のことも含め、

海外遠征の日々を回顧して

おられますので、ぜひそちらも

併せてご覧ください。

 

…………

 

I氏・記:

 

ビリヤードをこよなく愛する皆様、こんにちは。今回は、10月に起こった過去のビリヤード・ニュースを『日本ビリヤード新聞』のバックナンバーの記事から紹介させていただきます。

 

上の画像は、当方が所有している『日本ビリヤード新聞』の一面記事の画像です。トップニュースの見出しには、

 

『藤間選手四位入賞 -ワールド・トーナメント-』

 

とあり、藤間一男選手とアメリカのアービン・クレーン(Irving Crane)選手の写真が載っています。

 

この記事のイントロ部分には、次のように書かれています(原文ママ、以下同じ):

 

“B・P・Aが主催する第八回ワールド・オールラウンド・ポケットビリヤードチャンピョンシップは十月十八日~十一月十一日までの長期間にわたり、イリノイ州ジョンストンシティで14-1、ナインボール、ワンポケットの三種目トーナメントが開催され、藤間一男選手は14-1に第四位、ナインボールに第九位の好成績をおさめた。”

 

(注)B・P・Aとは当時のアメリカの団体「Billiard Players Association」の略称である。

 

藤間選手はこの年に渡米して現地の試合に参戦したのですが、それまでの経緯をご紹介しましょう。

 

…………

 

日本におけるビリヤードは、明治の時代からキャロム競技が長らくのあいだ全国的に盛んでした。

 

一方、プール(ポケット・ビリヤード)は昭和の初めごろから関西を中心に普及した競技でした。戦後には公式試合も開催されるようになり、昭和42年(1967年)にプールの最初のプロ選手団体である『日本ポケットビリヤード選手会(NPP)』が設立されました。

 

その中心的選手の1人が藤間一男選手でした。藤間選手は国内のプール競技の普及・発展だけではなく、早くから海外の情勢に注目をしていました。

 

昭和41年(1966年)の3月に、アメリカのブランズウィック社の仲介もあって、藤間選手は日本のビリヤード業者の関係者とともに初めて渡米し、15日間の行程でアメリカの各都市を訪れました。

 

この訪米は、あくまでもアメリカにおけるビリヤード事情の視察だったのですが、現地の大会を観戦する機会がありました。

 

『日本ビリヤード新聞』昭和41年(1966年)5月号(第13号)の『=特集=アメリカ・ビリヤード界の昨今』という特集記事の『アメリカにおけるポケットビリヤード界の現況』において、藤間選手はこのときの様子を次のように振り返っています:

 

昭和41年(1966年)5月号(第13号)の『=特集=アメリカ・ビリヤード界の昨今』
昭和41年(1966年)5月号(第13号)の『=特集=アメリカ・ビリヤード界の昨今』

 

“三月二十三日、ニューヨークを訪れて、私の訪米目的を一層有意義にならしめたものがありました。偶然にも一九六六年度ワールド・ポケット・ビリヤード・チャンピョンシップ・トーナメントが当地で開催中であり、その模様を三日間にわたって詳細に観戦し、研究することができました。

(中略)

この大会に出場している十五名の選手の中には、前年度のチャンピョン JOE BALSISや第二位であったJIMMY MOORE 六三年と六四年チャンピョンであるLUTHER LASSITER 過去三度の勝者であるIRVING CRANE 黒人初参加のCICERO MURPHY 3クッションのトップ・プレイヤーであるHAROLD WORST 二十一才の大学生であるSTEVE MEZERAK Jr等の有名選手がおり、賞金一二、五〇〇ドルを賭けて14-1ポケット・ビリヤード・ルールにより、一五〇点総当りリーグ戦を行います。選手は全員タキシードを着用しており、競技中上衣は脱ぎません。

(中略)

次期の大会には私も参加できるよう約束をいただき、今回のコネクションをお願いして、ニューヨークを発ちました。”

 

藤間選手はアメリカのトップ選手が集う大会を目のあたりにして、プレイヤー魂に火がついたのでしょう。その熱意が通じて、この翌年(1967年)に開催された同選手権への出場を果たしました。

 

日本のプール選手が海を渡って、国外のプール競技に参戦するのはこれが初めてではないでしょうか。

 

『日本ビリヤード新聞』昭和42年(1967年)5月号(第25号)の『ポケット選手権から得たもの』という記事で、藤間選手は述懐しています:

 

昭和42年(1967年)5月号(第25号)の『ポケット選手権から得たもの』
昭和42年(1967年)5月号(第25号)の『ポケット選手権から得たもの』

 

“私が東洋から初出場ということで、各紙上をにぎわし、特にディリーニュース紙のインタビューを受け、約二時間にわたる取材記事が、三月三十日の同紙上に「オンリー・ヒューマン」として大きく報道されたが成績の方は、初日第六ゲーム目、前年度第三位のビュテラ選手(マシン・ガンとニックネームを持つこの選手は、八分間に九三個のボールをポケットした記録保持者)と対戦して、たった三インニングでほとんど着席したまま完敗した緒戦から、最後のゲームまで苦杯を喫した。

(中略)

優勝賞金三五〇〇ドルをねらう彼等の前には、各方面からの期待に少しでも応えようと奮戦した私の技術など、あまりに幼稚であり、最下位の私に与えられたものは、四〇〇ドルの小切手と、大理石のトロフィーのみであったが、私が得たものは良き体験と、彼等の友情及び各組織との交流であった。”

 

15人の総当たり戦で全敗となってしまったわけですが、当時の日本でのプール競技のほとんどがローテーションであり、14-1は未知といってよい競技でした。日本のプールの第一人者が、前年の大会観戦後に帰国してからの約1年間の練習をもってしても、プール大国アメリカのトップ選手と競い合うことは容易ではなかったと想像されます。

 

しかしそのような結果にもかかわらず、藤間選手は大きな収穫を得て、次なる大会への参戦に燃えていたのでした。

 

その翌年の昭和43年(1968年)に、藤間選手は再び単身訪米し、記事冒頭で紹介した大会を含め、現地の4大会に連続出場したのでした。

 

以下がその大会の記録です。(この内容は「日本ビリヤード新聞」昭和43年(1968年)11月号の記事に基づいています)

 

昭和43年(1968年)11月号より
昭和43年(1968年)11月号より

 

前年に参加したワールド・ポケット・ビリヤード・チャンピョンシップ・トーナメントの14-1競技では全敗を喫したものの、今回の訪米で最後に参戦した『第八回ワールド・オールラウンド・ポケットビリヤードチャンピョンシップ』では14-1競技で見事4位の成績を収めました。

 

また、こちらも当時の日本ではほとんどプレイされることがなかった9ボール競技にも参加し、9位に入りました。

 

特に最初に出場した『第一回インターナショナル・ポケットビリヤード・チャンピョンシップ・トーナメント』では、優勝者のアービン・クレーン選手に敗れはしたものの104点というハイランを出して観客の注目を浴びたそうです。

 

…………

 

現在では、日本にいながら海外のビリヤード事情がインターネットを通じてすぐに分かりますし、海外の選手権のエントリーも容易にできることが多いです。しかし昭和40年代には、もちろんインターネットなどは無く、国際電話もまだ一般的ではなかったため、大会参加を含めた海外とのやり取りはどうしても国際郵便や、せいぜい国際電報に頼らざるをえませんでした。

 

また、海外での大会独自のルール、試合のフォーマットや雰囲気そのものはやはり現地に行かないと分からないものです。このような逆境の中、自ら海外のビリヤードを吸収しようと奮起された藤間選手の活躍は、大いに賞賛されるべきことだと思います。

 

2020年初頭から世界中に猛威を振るっている新型コロナウィルスの感染拡大により、多くのビリヤード大会が中止となってしまいました。最近になって、国内外で徐々に大会が開催され始めているのは喜ばしい限りです。

 

日本から海外の試合に参戦される選手の皆様には、約50年前の藤間一男選手のパイオニア精神を模範として、大いに活躍していただきたい……と、I氏は陰なから応援します。

 

…………

 

I氏、ありがとうございました。

 

また来月、約半世紀前の11月の

日本ビリヤード界のニュースを

解説していただきます。

 

※日本ビリヤード新聞紹介記事一覧はこちら

 

………… 

 

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